VIRGIN BMW | 第3回 戦後のBMW BMWバイクの歴史

第3回 戦後のBMW

  • 掲載日/2006年08月26日【BMWバイクの歴史】
BMWバイク歴史の画像

東西ドイツの分断が
BMWに残した傷跡

戦後、ドイツは「西ドイツ」と「東ドイツ」に分断され“東西冷戦”が始まります。自動車やモーターサイクルを生産していたアイゼナハ工場は東ドイツ領となり、BMWもこの政治的な流れに巻き込まれてしまいます。

東ドイツの国有企業の所有となったアイゼナハ工場で生産されたモデルには、BMWではなく“EMW”というバッジが取り付けられ、自動車やモーターサイクルが製造されはじめます。ちなみに、EMWの“E”はアイゼナハの“E”です。

EMWは戦前のBMWの技術をもとに東ドイツでの自動車・モーターサイクルの生産に携わる企業として重要な役割を占めるようになります。また、この工場からBMWの技術は東ドイツだけでなく、ソ連(現ロシア)に移転され、戦前のBMWのコピー製品が生産されはじめるのです。現在「ウラル」という名称で販売されているモーターサイクルは、戦時中やアイゼナハ工場からロシアに持ち帰られたBMWをもとに生産されています。

戦争という不幸な事件をきっかけに、BMWが持つ技術は東西に分断されてしまいましたが、西ドイツ側に残されたBMWは苦難の時期を乗り越え、復興へと進みはじめようとしていました。

戦後の傷跡からの復興
モーターサイクルの生産の再開

戦後しばらく、BMWはモーターサイクルの生産を再開できませんでした。戦勝国から、さまざまな生産規制を受けていたからです。その苦難の時期に、BMWは自転車や農機具の生産を行い、ドイツ復興に貢献します。生産設備の復興や、モーターサイクルの生産規制が徐々に解除されたことを機に、BMWは250ccのモーターサイクルの生産を再開。

戦前に生産されていた単気筒モデル「R23」に改良を加え、1948年に「R24」として販売を開始します。1949年には2気筒モデルの「R51/2」が発売され、ここからいよいよ本格的なモーターサイクル生産が再開されます。

戦前、レースの世界で名を上げたBMWですが、戦後もレースシーンでは活躍します。戦後の西ドイツではレースが盛んに行われており、戦前にも活躍した名ライダー“ゲオルグ・マイヤー”がスーパーチャージャー付きのモデルで国内レースを席巻。他のライダーの活躍にも助けられ、BMWの名は改めて世に知らしめられることとなるのです。

ただ、戦後しばらくの間、BMWは国際レースへの参加を制限されており、その活躍が西ドイツ国内に留められていたのは残念なことです。西ドイツが国際レースへの復帰を認められたときには、BMWの“十八番”の技術であったスーパーチャージャーの使用がルールで禁止されていました。そのため、BMWの活躍の場は、大きく制限されてしまうこととなりました。しかし、BMWはサイドカーレースや世界最高速度などにチャレンジし、その技術力を世界へと知らしめるのです。

新世代モデルの登場と
自動車部門の復興

さて、1950年代に入るとBMWのモーターサイクル部門の復興は進み、いよいよ自動車部門の本格的な復興に取り組みはじめます。戦前の自動車生産は東ドイツ領のアイゼナハ工場に負うところが大きかったため、自動車部門の復興にはさまざまな苦労が付きまとっていました。

当初は他メーカーが開発したエンジンのライセンス生産から再スタートしたBMWでしたが、復興直後から「大衆車ではなく、高級車の生産を」と将来向かうべき方向性を定め、現在のBMWに至るまでの進化の歴史を歩みはじめます。

自動車部門の復興がスタートしたのとほぼ同時期、1951年にはモーターサイクル部門でも1つの大きな事件が起こりました。戦前の改良モデルの生産に留まっていたBMWが新世代のモデルを発表したのです。

「R51/3」、「R67」と命名されたこの2モデルは、伝統ある水平対向エンジンという基本軸は踏襲されていたものの、車輌内部の機構や発電システム、点火システムなどに新しい方式が採用され、発表後も年々改良が進み常に進化を続けていきます。1950年代に入ってからのBMWの歴史を見ていると、戦争の傷跡からBMWがついに復興し、前に向かって進みはじめたことが感じられます。

ただ、一見、順風満帆に見えるBMWモーターサイクルですが、世界的な自動車需要の増大の流れはこの時期からはじまっており、モーターサイクルがBMWの主要部門でなくなる時代は、すぐそこまで迫っていたのでした。

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